昭和49年05月23日 特別奉修委員
只今の御祈念は、まあ特別奉修委員の方達の御祈念に今日の夜の御祈念が一緒にされた事は、第一あの後藤さん所の、まあ二回一回じゃないですっけれども、赤ちゃんの初参りにお礼を申させて頂いたし、また光橋先生の所の今日は、あのお父さんのお立ち日だからというので、御霊様に今日はそれも一緒に頂いてあとで、だからあちらにも玉串をあげて頂こう、光橋先生にも玉串をあげて頂こう、まあ一回の御祈念でまあ、あれも是も済ませた訳なんですけれどもね。
それにもう一つのある事の願いを特別奉修委員の方達の願いでない願いの、願いあれておりましたからその事を願い、あるまあいうならば難儀な問題なんですけれども。神様が許されないと言う。それでもどうでも御許しを頂きたいという様な場合がありますよね。右と思うけれども、神様左と仰る。それでもどうでも、左の方におかげを頂きたいと思う様な場合がありますよね。
そういう場合にあの、その事を御願い、その無理なお願いがあっておりましたから、その事をお願いさせてもらいよりましたらね、あの蛇がねこう始めはこの「み」の字を頂いた。平仮名の「み」の字。この「み」の字と言うのはやはりあの「み」「み」から来たのじゃないでしょうかね。やっぱりあの「み」と言うでしょう。蛇の事を。だからみさんち言うですか、それがねこうしたのが、しりっぽがこうしてから蛇になってね、舌をぺろぺろぺろと出す所頂いたのですよ。
あの蛇がねあの下をぺろぺろ出す時にはね、あのお詫びをしよる時だそうですね。助けてくれ助けてくれという時だそうですよ。私達は気持ちが悪いですね。蛇がこうやってぺろぺろ、成程子供の時に私達が蛇なんかにいたずらするとね、ぺろぺろぺろぺろとあの、舌を出しながら逃げて行くですよ。矢張りあれは助けてくれと言う意味だ。まずならそれをご理解づけるとまあ「み」は「み」のメグリと仰るのですからね、そういう身のメグリの為に難儀を持っておる。その誰でも難儀は嫌なのです。
蛇が嫌いなくらいに難儀は嫌いなんです。けれどもそういう難儀が出て来ておる時にはね、そのメグリそのものも助けてくれというておる時なのです。もう一緒に助かりたい時なんだ。だからそういう時にはね、自分の嫌いな物が好きになる修行をすると許されるという意味の事を頂きました。だからいかにね神様がそれを願って御座るかと、あんやつは顔を見るとも好かんという人間が例えばおるとしますか、もうこげな食べ物は食べんがいいというような場合もありますか。
けれどもその本当を言うたら自分のその嫌いなその食べ物にこそ、その人が取らなければならない栄養がある場合がある訳です。例えばならあげなやつの顔をみろうごとないと。話しもしようごとないと言うたら、それだけ世間が狭くなる、今日のご理解から言うと、世間が広くならなければならんのに、かえってせもなる。こっちにも好かんやつがこちらにも好かんやつがおる。と言うと、もう愈々自分は窮屈に成る訳です。ですからそれを私共が好きになる稽古を一生懸命にさせて頂いておるとね。
あのうと言う事になると、それが神の機感にかなうから一切が許される事になる。神の心に適うから。なら私がそれこそあの、かあき色という色はもう一番嫌いな色。子供の時から嫌いな色。それが段々おかげを頂いて、信心修行に一生懸命ならせて頂きよったら、この頃はその、好きな色は勿論好きですけれども、嫌いだったかあき色が今度は一番好きと言う位になったでしょう。今だから合楽では旗を作るにも色んな、印刷物のあれを作るでもね、あのかあき色を使う。親先生が好きだからと云う訳なんです。
団体の旗でもなんでも内だけでしたよね。あのカアキ色。普通は赤とか紫だったですけれども、合楽だけはかあき色じゃん。所がかあきい色がかえってよかもんじゃけん、この頃大分真似をする人が出て来ましたね、御本部行くとけれどもあれは内が元祖です。かあき色の旗は。あれは私の一番嫌いな色だった。それが一番好きな色になると言う位にね、何時の間にか、もう私の心の中の色の世界なら色の世界が広くなった訳なんです。だからそう言う嫌いな物が好きになる修行がです。
例えば許されない事でも許されるという様なおかげに繋がって来る訳です。先程波多野さんがまだ椛目の時代に末永先生がまだ、椛目に修行に見えた時分にね、お参りをさせて頂いたら、なにかあのう塵籠の中にね、こう御し揉んだ物が入っておるげなもん。それからこう開いて見て見たところが、是が出て来たと。して見たところが中々良か事が書いてある訳です。それで綺麗にこうしわを伸ばしてね、もう誰にもみせずに直してあった。ところが今日は先生の結婚式でもあるから。
今日こそは是をお返ししようと思うて持って来たというて、ここに持って来られた。だから私はなら、誰にも見せなかったじゃろうけれども、今日は誰にも見せた、誰にも披露しても良かろう。と言うのがね、是がいうなら七年半も前にこれを書いて是を実際に彼が行じて来ておるから素晴らしいのです。読んで見ましょうかね。「十年、十年一辛抱」十年を一辛抱としておった訳ですね。「信心の辛抱を強くせよ。辛抱の徳を頂かなければならん。超のつく世界を目指さなければならん。」
超、超一流と言うあの超。是なんかはだんだんこういう様な、一つの願いが実現しようとしておりますね。彼の場合は。超の尽く世界を目指さなければならんと言っておる。「限りなき天地の有り難さを説く宗教。神を拝むものは神前に向かうてからは例え槍先で付かれても後へ振り向く事はいかんぞ。物音や物声を聞く様では神に一心は届かん。一生を通じて真を行じる心行。
熱烈なる求道心。修行、断食、水行、座業、立行沈黙の行、寝ずの行、野宿の行」ね。例えばならこう言う修行を一つ一つなしておる事です彼はね。「天地日月の心になる事肝要なり。信心の作法を節度を守り抜かせて頂く中に、修行の妙味がある。1日1食の修行。毛布一枚にて、休ませて、休ませて頂く修行。朝お水を頂いて御祈念を仕える修行。修行生の心得、四時から四時まで神習。
夜十一時までお広前のご用を頂く。喫煙をタバコねする事を。喫煙をする事をしない事。一切の間食をしない事。人の目に立たない様な信心にならねばならぬ。生神金光大神天地金乃神の御世話係りと云うておる。神様の御世話係りなんだ。本気で清まらせて頂く事を願う事が大切だあります。朝の御祈念においては特に清まる為の御祈念でなければならん。毎朝のお水を頂くが、御祈念には清まり方も尚一段となって来る。
御祈念の内容教団のため、国家の為世界の為の祈りの内容が必要である。椛目神愛会一同の者の助かりが国家世界の助かり、助かりとなしそれがひいては天地に通じる、信心は辛抱の徳を頂かなければならん」とまあ此の様にして箇条書きに書いて是を自分の修行のまあ目当てとした訳です。だからおそらく是は清書したか何かではないでしょうか。是は下書きであったから捨ててあった。それを波多野さんがひろうて (途中切れ)